「論理的思考」が必要な理由

Twitter上で話題になっている下記のブログに関して。

「論理的思考の放棄」という表現だけ見ると違和感を覚える人も多いと思うが、プログラマーに限らず、この感覚は非常に重要だと思う。
コンサルタントの場合、アソシエイト位まではあまり意識しなくても良いのだが、ある段階からは「論理的思考の呪縛」のようなものから抜け出ることが必要。

一方で、コンサルタントの場合、「論理的思考が不可欠」という認識が広まっているし、実際に仕事をしていても論理的思考が不可欠であることに異論を持つ人は少ないと思う。
これはコンサルタントに限らず、ビジネスパーソンに不可欠な要素として「論理的思考」が取り上げられる。

それではなぜ、論理的思考の放棄が必要となるのか。裏返すと、なぜ、論理的思考は必要なのか。

コンサルタントに限らず、仕事のプロセスを分解すると、

  • 前提理解
  • 思考
    • 発想
    • 検証
  • 伝達

といった形になる。

コンサルタントの場合、「何が課題なのか」(前提理解)→「どういうメカニズムが働いているのか/どうすれば良いのか」(発想)→「本当にそうなのか」(検証)→「こういうこと/こうすべき」(伝達)といった流れ。
実際には、発想と検証がサイクルとなって「思考」になる。

コンサルタント(に限らず仕事全般)において論理性が求められるのは何故か、と言えば、「思考」の中の「検証」と、「伝達」の部分で必要だから。
特に「伝達」の部分。

コンサルタントは最終的に、思考をアウトプットにし、それを顧客である経営者に伝達し、経営者の行動を変えることが必要となる。

取り上げた記事の中で

脳内にある感覚的なプログラムの構成データを、コンピュータが理解できる論理的なプログラミング言語のソースコードに変換する

という表現が有るが、これはコンサルタントの仕事に照らしても同様のことが言える。

「コンサルタントの脳内に有る感覚的なソリューションを、経営者が理解(加えて、人間なので「納得」)できる論理的な提言書に変換する」

突き詰めると、これがコンサルタントの仕事となる。

極論すれば、論理的な説明をせずに、施策だけを「これが良い」と提言したのであっても、経営者が「それは良い」と理解・納得し行動するのであれば、伝達においても論理的思考を用いる必要性は無い。

あくまでも、「コンサルタントの認識」と「経営者の認識」、更には「経営者の認識」と「従業員の認識」に乖離が有る部分に限定し、論理的思考に基づく伝達(説得)が必要となる。

加えて、プログラミングと違うのは、プログラミングにおいてはテストをすることが出来る。
そのため、「変換エラー」を後追い的に修正することが可能。感覚的に作り上げ、テストを走らせてからバグを取り除く。
一方でコンサルタントの場合、それが出来ない。一度出した提言に「バグが有りました」は許されないので、事前にかなり精緻に検証する必要が有る。

そのため、提言をまとめる際に一度、「論理的思考」にきっちりと頭を切り替える必要が有る。

しかし、「発想」段階では、どちらかと言えば「湧き上がって来る」というような感覚になることが必要だと思う。
論理的に発想をして行っても、非常に時間を要するし、結果として「つまらない」ことに帰着する。かなりの部分が「多分、こういう感じ」というもの。

また、「検証」においても、実は論理よりも感覚の占める割合が高い。特に「この施策じゃない」といった切り捨ては、殆どを感覚的に行っている。

将棋の羽生善治氏の著書の中の記述。

将棋は、一つの局面で平均八十通りの可能性があると言われている。
そこから直感によって二つないしは三つの候補手を選び、さらにそこから譜を動かすとか、飛車を動かすとか、桂馬を跳ぶとか、具体的なシミュレーションを始める。
残りの七十七から七十八の可能性について考えることは、基本的にはしない。

羽生善治「大局観 -自分と闘って負けない心」(角川oneテーマ21) p.130

論理的に詰めるのは、可能性が有る様々な手の中のごく一部。それで良いはず。

コンサルタント(に限らず仕事全般)の中で、「伝達」よりも「思考」の価値が高いということは同意頂けることかと思う。
正確には、伝達が不十分だと思考の価値が活かされないが、思考の価値が低い中で伝達だけ磨いても意味が無い。思考が必要条件で、伝達が十分条件。

論理的思考というのは、前提となる「思考」が出来上がった状態で、それを「伝達」する際に特に求められるということ。
また、コンサルタントに論理的思考が不可欠なのは、基本的に全ての「思考」を表現し、伝達することが求められるから。

しかし、あくまでも勝負のポイントは「思考」。
だとすると、「論理的思考の呪縛」から解き放たれ、事象に対して感覚的に対峙する状態に持って行くことが必要。

そういうことだと考える。

「閃き」というべき発想を、最終的に誰かに伝えるために論理的に記述する。
論理的思考は、あくまでも記述のためのツール。

論理的思考が出来ないと始まらないけど、論理的思考でしか考えられないとすれば、それは記述のためのツール=文房具になってしまう。

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