受けている指導の有難みなど分かるはずがない

昨日、Twitterで書いたことに絡んで。

 

私自身、若い頃に色々な上位者と仕事をした。

スタッフ時代からパートナー直下で仕事をする機会が多かったため、一緒に仕事をしたマネジャーというのは片手で収まる程度なのだが、その分、多くのパートナー/準パートナーに直接指導を受ける機会に恵まれた。

そのため、作業レベルだけではなく、視座や付加価値といったことについての指導を早い時期からかなり多く受けられたと思う。

 

で、自分自身の若い頃を振り返ってみると、徹底的に指導された時というのは勿論、精神的にきつかった。別にアウトプットが否定されているだけなのだが、自分自身が全否定されているような感じを受ける。

頭では有り難いと分かっているし、厳しく言われない人が次々に・・・というのを見ていると、厳しく指導されているうちはまだ安心、という気持ちは有った。

それでも非常に辛かった。

しかし、二流の経歴で頭の良さでは太刀打ちできない私のような人間が、「超」が付くエリートに喰らい付くためには、この位厳しい指導を受けないと、という意識は有ったし、とにかく成長したかった。

その気持ちで耐えて来た。

 

けれども、振り返ってみると、成長の転機になったのは全て、そのような厳しい上位者に付いて仕事をした時だったと思う。凄まじく詰められていたと感じた時に受け取った言葉が、実は今、ブログに書いている内容に繋がっていたりする。

(何となく自分自身の言葉のようになってしまっているが、そう言えば〇〇さんから言われた言葉だったな、と思い出す時も有る)

今、過去の上位者で尊敬する人を挙げると、当時滅茶苦茶に詰められた人ばかり。

逆に、当時「優しい」と感じた上位者との仕事を振り返ると、アウトプットの質を含めてイマイチ。プロジェクトの記憶も、くだらない話をしたり、呑みに行って楽しかった程度の思い出しかない。

 

更に振り返ると中学校時代の恩師。

当時は厳しいし嫌だと感じた教師が、今振り返ると「良い教師だった」と感じる。自分の子供にもあのような教師の指導を受けさせたい、といった具合に。

 

こんなものだと思う。

 

厳しい指導を受けている最中に、仮に「あぁ、有難い」などと感じられる余裕が有るとしたら、実は指導の意味が無い(か、相当な変わり者)と思う。

 

特に、徹底的に指導を受けるポイントというのは、自分自身が非常に弱い所。

この場合、自分自身で「この辺は苦手」と感じている場合には、そこを突かれることが辛く感じるし、「自分なりに出来たつもり」と考えていた場合には、何をどうすれば良いのか分からなくなるので、これもやはり非常に辛い。

そもそも、最初のうちは「自分なりに良くできた」と思ったものが全否定(しかも瞬殺)されることも多いので、「悪くはないだろう」と思って余裕こいて受け取りに行ったテストの結果が0点だったような感じになる。

 

議事録を書く意味について昨日ブログで書いた(参考:「育成の観点から見た議事録を作成する意味」)が、こういった意味なども表面的には理解できても、真の意味がしっかりと腹落ちするのは、恐らく自分自身が成長して振り返った時だと思う。

 

 

要するに、受けている時に指導の有難みなど理解しろということが無理な話。分かるはずがない。

なので、「辛い」と思うのは正常だし、指導を「有難い」と思って受けろと言うのも無理な話。

・・・ということだけを、若手の人は覚えておけば良いのではないかと思う。

 

ちなみに、指導を受ける人が居ない立場になると、更に辛さは増す。

アウトプットが顧客の前に出されるまで良いか悪いか分からないので、駄目なら一発でアウトという不安が常にのしかかって来る。

 

とは言え「何やらかしたって、命まで取られることはないよ」というのも、尊敬する元ボスの言葉。

 

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