「報告書」について

コンサルタントの成果が一つの形として現されるものが「報告書」。

「報告書は読み手に対してしっかりと伝わるように作る」

言葉にすると至極当然のことなのだが、実際の報告書を見ると、かなり多くがこの当然のことができていないように感じる。

「最終報告書」の場合、コンサルタントとして読み手(=顧客)に伝えるべきことは「何をすべきか」という提言。ここを起点に構成等を考えるべき。
しかし、実際に多いのは「作業者」の視点で書かれたもの。報告書が作業の手順に従って書かれているケースが多い。

環境認識から始まり、内部分析を行い・・・結論に辿り着くまでに長い道のりが有る。
そして、往々にして、作業量とページ数が比例する(そしてこれは、プレゼンでも同様の傾向が有る)。

全く意味が無い。

そもそも良くないのは「報告書」という言葉のような気もしている。何となくこの言葉だと「作業報告書」とか「調査報告書」といったようなニュアンスを感じる。

コンサルタントが示すべきは、そういったものではなくて、謂わば「提言書」。
(とは言え、慣習的に「報告書」という表現が一般的になっているので、この表現を用いるが)

労力をかけて調査をし、何か新しいことが分かったとしても、結果としてそれが最終的な提言の上で大きな意味が無いものであれば、報告書に含めるべきものではない。

「何をやりました」という報告をしているのではない。

報告書が100ページを超えるようなケースも見受けるが、戦略コンサルタントの報告書としては有り得ないと思っている。
100ページ分も「伝えるべきこと」が有るのだとすると、それは「何を伝えるべきか」をコンサル側が分かっていない(絞れていない)だけ。迫力のある提言など不可能。

100ページの資料の説明を聞き、そこから「何をすべきか」を聞き手側が絞り込むのは、それだけでかなりの能力を要する。
限度は10ページ程度。せめてこの中で提言を完結させる。勿論、その参考として補足情報が必要となる場合も有るが、それは本編と参考資料という形で、明確に区分した方が良い。

報告書を取りまとめる際、一度、「作業者」の視点から離れることが重要。

数ヶ月間、その会社・テーマのことをずっと考え続けて来たはず。「これを言いたい」ということが湧き出て来ているはず。

その湧き上がって来るものを基に、1枚の紙に少し大きめなフォントで

  • 貴社の認識の何が間違っている/ずれて来ているのか
  • その結果、貴社に何が起こっているのか
  • 貴社がすべきことは何なのか
  • それを実現する際の「肝」は何なのか

といった「伝えるべきこと」を箇条書きでまとめ上げる。「ポンチ絵」などに逃げずに文字だけで言い切る。

極論すれば、報告書はこれ1枚だけが本編で、それ以外は全て参考資料。

プロジェクト内の作業は、料理で言えば全て「下ごしらえ」。必要なことを疎かにせず、一つ一つ丁寧に行うことが重要。少しでも手を抜けば、それが出来上がりの味に映し出される。

しかし、完成する一皿に、その過程を見せる必要は無い。

100ページの報告書というのは、美しく、美味しく仕上がった一皿に、「これだけ沢山の鰹節で出汁を取りました」と、出し殻を盛り添えて出すようなもの(か、そもそも美味しく出来上がらなかった料理をごまかすためのもの)。

恐らく、本当に一流の料理人は「〇〇産の出汁をふんだんに使い、・・・といった手間をかけて作りました」という説明など加えない。

重要なのは、どういう出汁を使ったか/どれだけ手間をかけたか、ではなく、出来上がった一皿で感動を与えられるかどうか。

コンサルタントにとっての最終報告書は、この一皿。

数ヶ月の「作業」を凝縮させ、洗練させ、1枚の「提言」に昇華させる。

これが戦略コンサルタントの仕事。

とは言え、膨大なページ数の報告書を有難がる顧客も居る。

料理でも、「〇〇産の出汁をふんだんに使い、・・・といった手間をかけて作りました」といううんちくを有難がる人も居る。

相手を見てそこは適当に使い分けることも必要。
(そのため私は、「本編」と「参考資料」という明確なパート分けをし、全体で見るとボリュームが多く見えるけど、報告会では5枚程度で説明しきる、ということも多くやっている)

使っている出汁の産地やかけている手間を聞いて有難がっている人は、どうせ味の違いが分からない・・・などと言うのは止めておく。

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